人が知らないところを訪れる時、手がかりにする地図や住所。しかし、自分がどこに居るのかがわからなければ、地図や住所も役には立ちません。
われわれが物心ついた頃には京都の町並にすっかり溶け込んでいた仁丹の看板。われわれはこの看板に随分と助けられた思い出があります。
京都の町は東西、南北の大路、小路が碁盤の目のように走り、『通り』をはさんだ向かい同士がひとつの地域的な単位としての「町」を構成する「両側町」となっているのが特徴です。また住所の表記にも『通り』を座標軸にして、北へは「上ル」、南へは「下ル」、東へは「東入ル」、西へは「西入ル」で、「○○通△△東入ル(西入ル)、あるいは上ル(下る)□□町××番地」という表現をしてきました。これは長い長い生活の営みのなかで自然に生まれ、京都人はもとより京都の都市構造がおおまかに理解できる人々にとっては、行動するにも場所をイメージするのにも大変わかりやすい表現として親しまれてきました。
このような京都独特の『通り』を基準にした町名や住所表記のシステムとあいまって、仁丹の「町名表示板」はたいへん有効に機能してきました。この看板はホーロー製の頑丈なつくりで、
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かなりの年月が経っているにもかかわらず、まだまだ現役で働いています。しかし建物の立て替えのたびに取り除かれるなどの理由でしだいにその姿を消しつつあります。
なくなりつつある「町名表示板」を府民や京都を訪れる人々のためのナビゲーションツールとして見直し、復活・整備することが今回の提案です。
■『京都の大路小路』監修:千 宗室・森谷尅久(小学館)より
大路小路名が、一定の定着性をみせはじめるのは、十世紀に入っての頃であった。その大きな理由は、大路小路名がなければ、住所・地点の標示がきわめて理解困難であったことによるのである。すでに述べたように、平安京の住所・地点標示は、ブロック制によっており、この方式を採用すると、たとえば「二条油小路角」という、縦軸・横軸の交差で簡単に示せる標記が、「左京三条二坊九町西四行北一門」というブロック番号になる。これでは、ほとんど地理的イメージを描くことはできない。生活にはまことに不便なのである。実際、十世紀に入ると、官庁でもこの不便さは気づいたらしく、書類作成時には、正式のブロック番号とともに、縦軸・横軸の道路名を付して書きあげることが行なわれている。それだけ大路小路名、ニックネームが普及しはじめた、ということにもなる。
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