[調査報告]
松江の瓦
その歴史 -3-
・出雲型瓦(燻し焼き黒瓦)生産拡大
出雲型燻し焼き桟瓦
出雲地方における瓦生産の創生期その中心は、八束郡の秋鹿・古江地域であったという。以来需要の拡大と広範囲におよぶ豊富な粘土資源を背景に、宝永5年(1708)には出雲大津で生産が開始されるなど、生産基地は斐伊川、宍道湖周辺を中心に出雲地方一円に広がったという。
明治に入ると民家での需要は更に伸び、大正11年の県令による市街地とその周辺地域での防火のための瓦葺きの義務化などとも相俟って、生産は飛躍的に増加し、出雲大津だけでも、明治8年8万5千枚・明治40年22万5千枚・大正6年100万8千枚・昭和初年8万枚が生産されていたという。
・独特な型の出雲地方の瓦
全国的に使用されている一般的な瓦の袖と、出雲地方で生産されていた瓦の袖とは、その位置が左右正反対である(註・前出の「石見型」と「出雲型」)が、これには古くから二つの説が残っているという。一つは、この地方は北西風が強いので、その方向からの雨や雪の吹き込むのを避ける目的で出雲地方特有の型瓦を作ったとする説・いま一つは、この時代出雲地方での民家向けの瓦の生産量が極めて少なかったことから、松江藩がその保護と奨励のためにこの型の瓦を作らせ、藩内での需要の拡大と藩外への流出を防止したという説であるが、いづれの説が正しいかははっきりしないという。
・出雲型瓦生産の衰退
古い歴史と伝統に支えられながら、明治から昭和の初期にいたる間特に盛業を極めた出雲型瓦の業界も、戦後の急激な日本経済の変化に追随できず、家内工業的な零細企業から脱しきれぬままで急速に衰退の一途を辿り、やがて四世紀近くまでおよんだ歴史の幕を閉じたという。
出雲大津では、最後の窯の炎が消えたのが昭和52年のことであったという。
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